第5話:別のクリニックへ

以前に行った銀座のクリニックからのアドバイスをもとに、都内の「依存症外来」を調べ、依存症が疑われる人には専門の治療メソッドを提供している病院・クリニックを探しました。
数は少ないものの、都内でも何件かヒットし、その中から僕は新宿にあるクリニックに目星をつけました。実はここは銀座のクリニックを調べていたときにも見つけてはいたんですが、場所が自宅や職場から離れていたため、候補から外していました。

が、背に腹は代えられぬ。ちょっと遠いからなんて言ってる場合ではありませんでした。

まずはそのクリニックへ電話して、LGBT関連の性依存症に対応可能かどうか問い合わせをしてみたところ、親身に話を聞いてくださり「そういう患者さんも多いので大丈夫」ということでした。
それに妻からのアドバイスで、こういうものは実際に行ってみて、自分に合う・合わないもあるので、まずは行ってみるべしとも言われていました。

通院当日。
初回は文字通り「問診」でした。

ここのクリニックは依存症専門の先生が週に何日かいらっしゃるらしく(つまりそれが「依存症外来」)、初回は別の先生が担当で、僕が依存症に該当するのかどうか精査するため、僕が抱えている問題について先生に伝えていく作業でした。(そこで何かアドバイスがあるわけではなく、本当に「総合的判断の材料のため伝えている」という感じでした)

その判断で、依存症専門の先生に対応をお願いした方がよいとの結論になった場合に初めて、依存症専門の先生にお目にかかれる(依存症外来にかかれる)ようです。

僕の過去の悪行や妻との状況について、過大でもなく過小でもなくありのままを伝えていきました。壮大な話なので、触れ忘れた内容は多々あったと思いますが…。
時間は25分ぐらいでしょうか。感覚的にはかなり喋ったと思います。

最終的に先生の結論は「そうですね、これは依存症専門の先生に診ていただくのがよいかと思います。専門の先生は診察代にプラスで数千円の別料金が発生するんですが、次回その先生の予約をしますか(依存症外来行きますか)?」ということでした。

もちろん迷わず予約をお願いしました。

また、今回の先生に「依存症の自助グループについても調べていて、そういったところに通う方が良いのかどうか」についても質問してみました。その先生からは「次回診察する依存症専門の先生はそういった自助グループも紹介しているので、その先生にお勧めのグループを聞いてみてください」という回答でした。
あくまで今回は依存症に該当するかどうかの問診の模様です。(笑)

今回の診察も保険が適用され、診察代は前回とほぼ同じ二千円ちょっとでした。

次こそはいよいよ依存症専門の先生に診てもらいます!
まさか自分が依存症外来に通う基準に合致するとは…。単純に驚きで、面倒くささとか嫌悪感とか怖さみたいなものは全くなく、僕の性格上、興味・好奇心でいっぱいです。(笑)
そして専門治療を受けられるのは、脱却しようと模索する僕にとって頼もしい限りです。

第4話:LGBTを隠すこと

今回は「LGBTを隠すこと」について僕なりの考えや感覚を書いてみたいと思います。

まず、僕自身がLGBTを隠して生きていること、バレそうになってもひたすら隠そうとすることに、妻はちょっと驚いていました。そんな反応の妻に、僕はもっと驚きました。
心の中で、「何言ってんの?当然じゃん。バレたらいろいろ終わるわ…。」と驚愕していました。

が、改めて考えてみると「いろいろ終わる」の「いろいろ」が具体的に思いつくわけでもなく、「終わる」明確な根拠が特にあるわけでもありません。どちらかというと、隠すということが、体に、心に、脳に、無条件に染み付いている感じです。
つまり、隠すことに積極的な理由があるわけではなく、触らぬ神に祟りなしというか、口は災いの元というか、、、言った後のリスクが多少でもあるのであれば、言わないに越したことはないという考えと言った方がいいかもしれません。

こんな僕からすると、LGBTに対する理解が広まった今の時代でも、まだまだこの「隠すこと」は依然として“無難に”生きていくうえでの必須技能とさえ思ってしまいます。
ではなぜバレるとマズいのか、なにをリスクと感じているのかについて、僕なりに考えてみました。
隠すことが条件反射となってしまっている僕にはちょっと難しかったですが、なぜ隠すことが当然になったのか…?

➀物心がつく時分は「そもそも言いだしにくい」説

まずそもそも論なんですが、子供の頃は「周りと違うこと」を恐れる傾向にあるような気がしませんか?
中学生や高校生など、ある程度大きくなると、逆に周りと違う格好や違うことをしたくなりますが、幼少期って自分だけ浮くのが怖いとか、みんなと一緒がいいとか…。
それと同じで、自分の性的対象が大多数とどうやら違うということを、物心がついた頃にはそもそも言いだしにくいのか…?

➁悪気はなくても世間の節々の言動が言いだしにくくさせる(これが大きい)

例えば、LGBTかどうかを聞くときに「もしかしてコッチ系(口元に手をかざす動作付き)なの?」と聞かれ、それに対して周りが「僕君は大丈夫(違うという意味)だと思うわ~」という反応を返すシーン。

僕としては“こっち”ってどっちだよ、LGBTは住む世界が違うとでも?そして“大丈夫”って何?LGBTでも大丈夫だわ!と心の中で思うわけです。
この両者の発言に嫌味はなかったとしても、どちらからも「自分の周りにLGBTなんて皆無」という大前提のニュアンスが含まれているように感じてしまうのです。(僕がひねくれてるのかも)
そう感じちゃうと気軽に「うん、そう(LGBT)だよ!」とは言うに言えないんです。

他にも、日々の会話の中で、「男同士なんて気色悪い」と、(もはや素直に)反応を言葉で示す方は一定数いるんです。そこに悪気はないと感じても、そういう感覚だって人によっては当然あると思いながらも、やはり言われて気持ちのいいものではないからか、LGBTを伝えることに不安を感じてしまうわけです。

小さなことでいえば、ゲイ動画が「アブノーマル」というジャンルに入っていたとか、LGBTで売り出していない“一般的な”芸能人が頑なにLGBTであることを否定するとか、そんなことが小さい頃から身の回りのそこかしこで、僕にLGBTの奇異性を訴えかけてくるわけです。

③相手のLGBTに関する理解度が分からない(知ろうとしない)問題

最近僕は結婚したので、そのことを周りに伝える機会が多くありました。その中の1人、男性の先輩から「おめでとう!パートナーは女性?男性?」と聞かれました。
「最近は同性カップルだって全然ありえるから、恋人とか結婚の話をするときは、一律みんなに聞くようにしてる」とのことでした。本当に心から偏見なく、話の前提を合わせようと聞いてくれていたわけです。その先輩はLGBTについて一定の知識を持っていることは容易に想像がつきます。からかうことも絶対ないはずです。大前提としてこの先輩はグローバルな思考の持ち主で自頭も良く、優しいです。

それでも僕は、この先輩にLGBTであることを伝えるまでには踏み切れませんでした。
なぜか?ここでもやはり「キジも鳴かずば撃たれまい」の原則が発動します。
その先輩は果たして複数人でいるときに良かれと思って「僕君はLGBTなんだよね!」とか発言しないだろうか、伝えることで僕に対する接し方が良くも悪くも変わらないだろうか、知識としては知っていても当の印象はどうなんだろう?といった疑問が脳内で渦巻きます。
そして、もし少しでも関係性に変化が起きたり、いらぬ心配が生じたりするなら、言わない方が良いという結論に達します。

これは歩み寄りの問題で、向こうが歩み寄って来てくれたなら、僕側がもう少し確認会話をしたり、希望を伝えたりしないといけないと思います。
でもこういったLGBTへの寛容さにまだまだ慣れてなくて、その場でパッと良い切り返しが出てきません。「絶対言わないですか?」なーんて聞いたら、「そうです、LGBTです」って伝える前から言ってるようなもんですよね…。LGBT側でも相手を確認する姿勢に慣れていく必要があると思います。

こうやって幼少期から生きてきた僕は、LGBTであることはとりあえず隠しておけば問題ないという思考回路に陥り、その条件反射から抜け出せなくなっているんだなあ…と振り返り思うのでした。